菊田義孝は、太宰の弟子で、太宰について多くの著作を残している文芸評論家である。私は氏と酒を酌み交わしながら、太宰の思い出や太宰文学についていろいろ教えてもらった。氏はよく、「太宰文学には<弱さの気品>というものがある」と語っていた。鋭い指摘だと思った。太宰が自らの文学世界の中で求めた<弱さの気品>—-それは、菊田と太宰がはじめて出会った時に語られた言葉のなかに、余すところなく表現されている。「天国って、どんなところでしょうかね、かなり酔ってきたとき、私が(太宰に)聞くと、<天国というのはね、ケシ粒のごとく小さな、か弱い人間でも、絶対に誰からも踏みにじられたりすることのないところ、そういうところだと、僕は思うね>と彼は答えた」(菊田義孝、人間脱出、弥生書房、1979、p80-81)。
太宰は、ダンテを深く読んでいた形跡がある。彼が好きだったダンテの言葉。
「ここを過ぎて悲しみの市」
「おもてには快楽を装い、心には苦悩を秘め—」
太宰は、自分の存在が人を不幸に導く人間なのではないのか、という負い目をずっと抱えて生きていたように思う。そのために、自分にも他人にも、恐怖感を抱いてきた。ダンテを引用したのは、そういう気持ちを込めたかったのではなかろうか。日本におけるダンテ研究の第一人者今道友信は、この部分を次のように注解している。「この言葉を繰り返し暗誦していると、<我>が、自分自身をさすような思いがしてくる。これまで、自分の人生の中で、私は、人に躓きを与えてこなかったか、そういう思いが次々と湧いてくる。人にほんの少しでも悲しみを与えたことがありはしないか。それだけで、人を地獄に近づけたことになるのだ。」(79)(79)今道友信:ダンテ「神曲」講義、みすず書房、2002。今道が言うように、我々は他者を傷つけて止まない存在であり、また、そのことによって自らも傷つく。太宰は、そういう、人間存在の「哀しさ」を深く知っていた人である。強者の論理がまかりとおり、弱者が踏みにじられて行く現代において、太宰文学の「弱さの気品」が、多くの読者に受け入れられる所以であろう。
一方、この太宰的な「弱さの気品」を嫌う文学者がいるのも事実である。その、代表が、三島由紀夫と石原慎太郎であろう。石原は、太宰生誕100年で若者に広まっている太宰ブ-ムを苦々しく思っているらしく、産経新聞インタ-ネット版(2009.12.7 02:52)で、太宰文学批判を展開している。石原は、「現代における太宰治の小説の突然の人気のいわれにはもっと深く危ういものがある。—-こうした兆候は、日本という国家の衰運を強く暗示している。—無為と愚痴の果てに野垂れ死にする浮浪者に酷似している。」と言う。太宰文学の人気—>軟弱な若者の増加—>国家の衰亡にかかわる問題といった、石原流ステレオタイプ的「憂国」発言である。彼には、人間のもつ根源的な弱さへの深い洞察、理解、共感が欠落している。結論的に言えば、石原の文学と政治の根底にあるものは、太宰の「弱さの気品」の対極にある「強さの下品」ではないか。上から目線と弱者に対する共感力の欠如、そして、歪んだ「愛国心」である。週の2-3日しか登庁せず、都営銀行の巨額な損失の責任も取らず平然としている彼には、太宰文学の「弱さの気品」を否定する資格はない。石原は、優秀な頭脳の持ち主ではあるが、自らの政治的地位の安定を維持するために、いつも、世の中の「成功者」や「強者」に媚び続けるのである。彼は、敗者の歴史に学ぶ謙虚さに欠け、人間の悲哀に対する深い洞察力を持たない文学者であると私は思う。
三島由紀夫は、太宰に始めて会った時、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」(80)私の遍歴時代、ちくま文庫、筑摩書房といったそうである。三島の太宰文学に対する嫌悪感は相当なもので、「太宰の持っていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。第一私はこの人の顔が嫌いだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味が嫌いだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのが嫌いだ」(81)「太宰治について」)と、公言している。石原は、このような三島の太宰観を支持しているようだが、多くの研究者は、三島と太宰の文学の類似性を指摘している。表現様式は異なっていても、両者とも、過敏すぎるほど自分の弱さ、劣等感にこだわりを持っていたと思われる。三島は、正直に告白している。「私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反撥を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。従って、多くの文学青年が氏の文学の中に、自分の肖像画を発見して喜ぶ同じ時点で、私はあわてて顔をそむけたのかもしれないのである。」(私の遍歴時代、ちくま文庫、筑摩書房、p109)
1949年に行われた日本共産党の指導者・宮本顕治と加藤周一の対談(加藤周一:<国民的記憶>を問う、加藤周一対話集3 、P308-10は、戦後まもない日本の知識人達に太宰文学がどう「受容されたか」を理解する上で興味深い。宮本は、当然ながら科学的社会主義者の立場から、太宰文学に鋭い矢を放っている。宮本は、「ほんとうの社会全体、人間関係の本質、大きな意味での客観的真実、そういうものを正確に彼自身の頭脳が反映してない」と太宰を批判する。宮本は、誠実な政治家であったが、結局、太宰的な「弱さの気品」を理解することのできない感性をもった人であった。マルキシズムの確固たる基盤に立って太宰を批判する宮本に対して、加藤は、「太宰の場合はその背後にいちおう本質的なものがあると思うんです。」と反論、太宰文学の文学史上における意義は、単なる、社会・経済的な問題意識にとどまらず、そのさらに奥深いところにある「人間存在の神秘」を明るみに出した点にあることを洞察している。しかし、加藤は単なる太宰文学の礼賛者ではなかったし、太宰文学の問題点も鋭く抉りだしている。「—–他者がないということは太宰のまちがいの根本的な点だと思うんですよ。」と言って、太宰文学が求めて遂に得られなかったテーマ—人と人の関係、神(絶対他者:ganz Andere)と人の関係の問題の解明が未完成だったことを指摘することも忘れていない。
太宰文学の世界は、社会的秩序への反発、普遍的真理への懐疑、自己の解体など、一見ポストモダン的な様相を呈しているが、実質は、そういう状況のなかにあって、必死に、「愛」とか「義」とか、「神」を求め続けた文学、と言ってよいのではなかろうか。
太宰文学には「他者性がない」と、加藤周一は批判したが、これは、太宰文学の本質にかかわる問題なので、私見を述べて置きたい。太宰文学が一人称の文学といわれるように、太宰の関心事は「自己」であったことは間違いない。しかし、それは、太宰が、他者の苦悩と全くかかわりのない世界で生きていた、ということでは断じてない。かれは、人一倍、他者の苦悩に敏感だったのだ。太宰は、弟子の堤重久にふと、次のような言葉を漏らしている。
「酒をのんで、家に帰ると、バタリと倒れて寝ちまうんだが、夜中の三時頃になると、かならず眼がさめる。するとね、こし方、行末、ありとあらゆるいやなことがわッと集ってきてね、その苦しさ、やりきれなさはひどいもんなんだ。遠くで暮らしている、知人たちの苦悩まで、どっと胸に流れこんできてね。あれだけはかなわんよ」(堤重久、太宰治との7年間、P18)
太宰と同じくアスペルガーであったとされている、フランスの女性哲学者・シモーヌ・ヴェイユは、ほとんど病的といってよいほど、他者の痛みを自らの痛みとして感じてしまう生来の資質があった。(アスペルガーの偉人たちP222、P233)彼女は、イエス・キリストのように徹底的に自己を低くし、孤独でありながら、同時に強く愛の共同体を求めた稀有の哲学者であった。アスペルガーの人は共感力がない、という通念は誤りである。このような誤解は解いておかねばならないと思う。彼らは、確かに、状況における共感力に欠陥はあるが(つまり、空気が読めないということ)、他者の苦悩に対する共感力がないというわけではない。時として、太宰やヴェイユのように、異常なくらい他者の痛みに自己を同一化してしまう人もいるのだ。
太宰治ADHD説、富永国比古著、三五館,2010